『モンゴル帝国の興亡 (ちくま新書)』

 

モンゴル帝国の興亡 (ちくま新書)

モンゴル帝国の興亡 (ちくま新書)

 

 世界史の中心といえば中東とヨーロッパかと思っていたところに、突然世界史の主役に踊り出てくるモンゴル。アジアの、しかもめっちゃマイナーな地域だし。しかも主役になったと思ったらその後まったく音沙汰聞かないし。そんなモンゴル帝国がどのように繁栄し、ヨーロッパまで席捲したあとは一体どうしちゃったのか。ぜひ知りたいー!と思って本書を読み始めたのですが…途中で挫折してしまった。

モンゴル帝国の建設者、テムジン・チンギス・ハーン以前のモンゴルの記録を、唐、遼、ペルシア、金それぞれの国にあるものから載せてあって、そこで挫折した。単語が読めなくてつっかえるのと、情景がさっぱり思い描けなかった。少し引用してみると「唐の記録によると、大山の北に、大室葦部落がある。その部落は望建河(アルグン河)にそっている。その河は、源は突厥(トルコ)の東北界の倶輪泊(ホロン・ノール湖)に出て、屈曲して東に流れ、西室葦の界を経、また東に流れて…以下略」こんな感じ。これで挫折。

なので、モンゴル帝国盛衰の流れはよくわからなかったけど、ところどころ知ってよかった知識を仕入れられた。

まずこれ。

「歴史は、世界中どこにでもあるというものではない。地中海世界と、中国世界に起源があって、そのほかの地方には、それぞれ地中海型か、それとも中国型かのコピーしかない」

地中海世界では、紀元前5世紀に、地中海の一角、小アジアのハリカルナッソスに生まれた、ギリシア人とカリア人の混血のヘーロドトスという人が、前480年にペルシア王クセルクセースが、大群を率いてギリシア全土を攻めて、アテーナイの前のサラーミスの海戦で敗れて逃げ帰った事件に興味を持ち、この問題を「研究」して『ヒストリアイ』(調査研究)という書を書いたので、それが発端になって「ヒストリア」が「歴史」という意味を持つようになった」

「中国世界では、紀元前2世紀の末の前104年、前漢武帝が、この年の陰暦十一月(子の月)の朔(ついたち)が、六十干支の最初の甲子の日であり、しかもこの日の夜明けの時刻が冬至であるという、中国の暦学でいう、宇宙の原書の時間と同じ状態が到来したのに合わせて、太初という年号を建てた。このとき、太史令(宮廷秘書官長)の司馬遷らの定義によって、歴訪を改正することになり、「太初暦」が作られて、それまで年頭であった十月(亥の月)に代わって、正月(寅の月)が年頭になった。

司馬遷がこれを記念して、『史記』を書きはじめ、前97年に及んで完成した。「史」はもともと、「記録係の役人」という意味だったが、太史令の司馬遷が『史記』を書いてから、はじめて「歴史」という意味ができた」

『クーデンホーフ光子の手記』 シュミット村木眞寿美

 

クーデンホーフ光子の手記 (河出文庫)

クーデンホーフ光子の手記 (河出文庫)

 

 本文よりも、シュミット村木眞寿美さんの思い入れというか存在感に圧倒される!光子さんよりも村木さんのほうが主役かもしれない。…おそらく、この感想は村木さんの本意ではないと思うけど、光子さんの本文が村木さんの思い入れの濃いプロローグとエピローグに挟まれてこそ一つの作品なんだと思う。前回読んだ『李香蘭私の半生』が山口淑子さんと藤原作弥さんとの共同作業であるように。

村木さんはドイツに住んで、ドイツ人の夫と子どもたちという家族を持っている。ドイツ語で暮らしながらも日本語とドイツ語のそもそもの思考方法の違いなんかもあって、ドイツ語ネイティブの娘さんに「ママ、何言ってるのかわからない」なんて時々言われてしまう。光子さんの手記には子どもからそんなことを言われたなんて書かれていなかったけど、光子さんの拙い手記を見ると、きっと子どもたちに「ママって時々何言ってるのかわからない時あるよね」なんて言われているんだろうな…と共感する村木さん。

こんな感じで、手記に直接書いていなくても、村木さんが「きっとこれはこうなんだわ」みたいな感じで、エピローグにどんどん書かれていたので、ほんとに書いてある字面だけ読んで「船の旅楽しそうだな」「クーデンホーフ氏みたいな、哲学や宗教に造形の深いインテリっておるよな」なんて思っていた私は、いやー浅い読み方してたんだなーと反省しました。

そもそも、これまでの光子さんの評伝や描き方では、持ち上げては貶されという経緯があったんだって。そういう、あるときには日本出身の貴族女性と崇められ、あるときには夫の精神世界をまるで理解できなかった無教養な日本女性と貶められと、評価が乱高下していたところ、村木さんが「よし、私が本人の手記を訳して等身大の光子さんを書いたる!」と手がけられたそうです。

それも、ハンガリー公文書館に苦労して通いつめて、コピーができないのでその場で手記を読んで録音し文字起こしして翻訳。しかもこの手記を見せてもらうまでがまた一苦労という、大変な思いをして書かれたんだよね。手記を音読していると、光子さんが憑依したかのようにオーストリア風ドイツ語の発音になってしまったり、そもそも録音した自分の声が光子さんのそれのように聞こえてきたり。こんな思いをして書き上げた本だから、そりゃあ村木さんの存在感が濃くなるよね。

『李香蘭 私の半生』戦前の中国大陸

 

李香蘭 私の半生

李香蘭 私の半生

 

 四方田犬彦さんの『原節子李香蘭』が面白くて、特に李香蘭の項がよかったので、今度はご本人の半生記を読みました。自伝というか、藤原作弥さんが山口淑子さんにインタビューし、ご本人の記憶の途切れているところを取材して保管しながら書き上げたみたい。

李香蘭とか山口淑子さんとか一応説明しておく?李香蘭とは、山口淑子さんの芸名。芸名なんだけど、中国にいた頃に父の友人の李さんという人の養女になった時の名前ということで、子供の頃にこの名前がつけられた。だからまるっきりの芸名というわけじゃないんだよね。友人の養女というのは、なんでも中国では、友情の証として、親しい友人に自分の子供の義理の親になってもらって名前をつけてもらうという風習があるらしい。でも、後に学業のために、潘さんというまた別の中国人のお家に下宿しながら中国の学校に通うため、淑華という名前もつけてもらうんだよね。このときは日本への反感が高まってきた時だったから、日本名だと危険だということで中国名に。ややこしいねw

山口淑子さんは中国で生まれ育ったけど両親は日本人。だから日本語も中国語も流暢で、両国の文化にも通じてた。でもどちらかというとやっぱり生まれ育った中国の慣習や文化の方に馴染んでいたみたい。

山口淑子さん…というより私にとっては李香蘭の方がしっくりくるので以下こちらの呼び方で。李香蘭は10代の頃、ロシア人の親友リューバに誘われて声楽を習い始める。それで習い事の発表会なんかをしているうちにラジオ局の目に止まり、歌手として活動し始めるの。ラジオで歌う歌手としてそこそこ知られ始めた時に、今度は満映という、当時の日本の国策映画会社の目に止まり「日本語のできる満州女子」という設定で、あれよあれよという間に映画女優としてデビューすることになるんだよね。その後はレールの上をひた走るように、どんどん人気女優の道を進んでいく。

でも本人としては辛いところもすごくあるんだよね。本当の自分を隠しているから、インタビューなんかで生い立ちを聞かれてもうまく答えられない。嘘をついてるようなモヤモヤ感がつきまとう。中国の友人たちには「なんであんな中国人を侮辱するような映画に出るの??」と厳しく批判される。

日本でも大人気になった李香蘭は、いよいよ来日することに。李香蘭も「日本は文化も進んでいるし行くのが楽しみ!なんといっても祖国だし」と胸膨らませて下関に上陸するんだけど、そこの憲兵に「貴様!日本人なのになんでチャンコロの服を着たり名前を名乗ったりするんだ!」と怒鳴られてしまうの。いきなりショック。ここ読んでほんっと頭にきた!もうね、当時の兵隊のクソ威張り具合がほんっとひどい。いや、まあいい人もいたんだろうし、この本にも実際出てくるけどさ。ただし戦争批判者としてだけど。

中国で威張り散らす兵隊もほんっとかっこわるかった。これは上海での話で出てきたんだけど、威張り散らす場所が日本租界だけ(当時の上海は租界と呼ばれる英米仏日などの外国人居住区があった)という内弁慶さ。また、現地の中国人が日本が戦争に負けたことをすでに知っていて生暖かく見ているのに、当の軍人はそのことを知らなくて(情報が入ってきてもデマだー!と否定して)相変わらず威張り散らしてるとかもうほんっとイヤ。

山口淑子さんの自分を偽る苦しさは終戦とともに解放される(その前に、記者会見で自分は日本人だと告白する決意をしたんだけど未遂に終わる)。終戦当初は、中国を日本に売り渡した「漢奸」として軍事裁判にかけられる。そこで、ソ連の役人になっていた少女時代の親友リューバの働きかけで日本の戸籍謄本を取り寄せ、日本人であると認められて漢奸の疑いが晴れることに。

この辺りで本書の大体のところは終了。山口淑子さんのその後の人生もまたすごくて、ハリウッドに渡ってチャップリンやジェームス・ディーンと親交を持つとかブロードウェイのミュージカルで主役を演じたとか。でもその辺りはさらっと終わっちゃうのよ。「えええ、そこの話もっと詳しく!」って言いたくなっちゃうよね。でもタイトルが「李香蘭 私の半生」だし、山口淑子さんが李香蘭時代を整理して向き合うことが本書の目的なんだろうな。

あと、川島芳子登場シーンで、いつも肩に小猿をのっけて現れるというのがちょっとツボったw

 

『自負と偏見のイギリス文化―J・オースティンの世界 (岩波新書)』

 

自負と偏見のイギリス文化―J・オースティンの世界 (岩波新書)

自負と偏見のイギリス文化―J・オースティンの世界 (岩波新書)

 

 遅ればせながら「オースティンいいなあ」と読み始めたので、こちらの解説本を読んでみました。といっても、私が読んだのってまだ『エマ』と『マンスフィールド・パーク』の二つだけなんだけど。しかもこの解説本はけっこうネタバレがあるので、読まずして色々な本の結末を知ってしまった。でもオースティン本の魅力は描写の面白さにあるのだからいいかな。

こちらはイギリスの文化史の勉強にもなってよかった。近代のイギリスといえばヴィクトリア朝なので、オースティン作品の舞台もヴィクトリア朝と勘違いされがちなんだけど、実はその前の「摂政時代」を背景にしていたんだって。ジョージ4世が父の代わりとして摂政を務めたときから彼が即位して死ぬまでの時代で、お堅いヴィクトリア時代とは対照的に、奢侈、自由奔放、快楽主義が時代の雰囲気だったのだそう。

オースティンはこの摂政時代の人で、ヴィクトリアが即位する前に亡くなっている。摂政時代の特徴を表しているうちの一つは、例えば『エマ』で主人公のエマに散々振り回されることになる私生児のハリエット・スミス。彼女のお父さんは誰だかわからないんだけど、エマをはじめ、周りの人はそれについて特に差別したり嫌悪したりということはない。ヴィクトリア時代だったらそこがもっとマイナスに描写されていたかもしれない。

オースティンが小説を書き始めたきっかけは、当時出回っていた小説が、やたらドラマチックでうんざりするものばかりだったので、「よし、それをいじってやれ」といことだったらしい。だから初期の習作は、そういった小説でありがちなキャラクターをカリカチュア化して描いたギャグ作品が多く、またその後の作品でもそういった雰囲気は持続している。

イギリスの階級問題について。オースティンは「自分の知ってることしか書かない」がポリシーだったので、オースティン作品に登場するのはもっぱら中産階級。貴族でもなく労働者階級でもないんだけど、地主とか牧師とか知的職業とか。日本とは違う社会なのに、この階級意識の中で悲喜劇が起こるのが、なぜか日本人の私にも「あーいるいるそういう人」と面白く読めてしまう。例えば、中産階級にいても、成り上がってそこに仲間入りした人のように地位が不安定な場合、見栄を張ったり他の人を見下したりという行動を取ることが多いとかね。

それから、オースティンがいかに英語圏で愛されているかも知ることができた。本国イギリスでは当初「ジェイナイト」と呼ばれるオースティンファンの紳士たちがいて、「俺のジェーン」とばかりに、オタク的に内輪でオースティンのユーモアなんかを愛でていたんだって。その後、伝記の発売やリバイバルでより一般的に人気は広がり、現在のジェイナイトは女性が多く、オースティン作品の登場人物をコスプレして集まって楽しんだりしているそう。アメリカでのジェイナイトは「古き好きイギリス」への憧れなんかも混ざっていると解説されていました。

 

『インドネシアのムスリムファッション-なぜイスラームの女性たちのヴェールはカラフルになったのか』

 

 世界一のイスラム教徒を擁するインドネシア。今でこそヴェールをかぶる女性が多くなったものの、実は90年代ぐらいまでこのようなイスラム教徒らしい格好をする女性は少数派で、むしろ「変わってる」「堅苦しい」などという目で見られていたそう。

それがなぜ現在のように多くの女性がイスラム教徒的な服装に身を包み、しかもおしゃれに進化していったのか。たしかに不思議だわー。

インドネシアでは以前からイスラム教徒が多数派だったんだけど、あまり自覚のない、めちゃゆるいイスラム教だったんだよね。

それが、1970年代、アラブ世界で始まったイスラム復興運動の波が、インドネシアにやってくるあたりから変わり始める。大学生をはじめとした都市部の若者を中心に、インドネシアでもイスラム教を見なおそう、ちゃんとイスラム教を学んで実践しようという動きが始まるの。

スハルト政権時代は独裁政権だったので、社会運動はどんどん弾圧されていくんだけど、大学でイスラム教を広める活動も、もれなく弾圧されていくんだよね。でもイスラム教、宗教ということで他の社会運動よりは少し大目に見てもらう。ただし、やっぱりそこは限定した感じで、公教育の場で女子学生がヴェールをつけたり体を隠す服装をすることは禁止されたんだって。

こんなわけで、細々とイスラム教を勉強したり布教する活動(ダアワ運動)は続いていくんだけど、そのうちにスハルトが失脚。民主化が進み、社会運動も復活し、ダアワ運動もより活発に。女子学生がヴェールをかぶり、体を覆う服装をすることも解禁された。

ということで、このスハルト政権後あたりからポツポツとヴェールをつけて通学する女子学生が現れ始めるのね。彼女たちがなぜそれを始めたかというと、多くは「素敵な先輩に憧れて」という。それは、大学でのダアワ運動の一環で、大学生が年少の若者たちにイスラム教を教えたり相談に乗ったりとかしてたからなんだけど、中高生からみたら、そういう大学生って眩しく見えるよね。また、こういう運動が盛んな大学は名門校が多かったとのことだし。

あ、もちろんヴェールの前に、イスラム教の教えを実践していきたい宗教心という大前提があるからね。印象的だったのが、ある女子高生がダアワ運動を受けて、イスラム教にもっとコミットしていこうと決心したことを語っているときに、「私はいままで何のために生きているかわからなかったんだけど、イスラム教を勉強していくうちに、日々の生活それ自体に意味があることがわかった」というもの。ちょっといま本が手元になくうろ覚えなんだけど、だいたいこういう意味だった。それがね、私の心にとても残ってる。

で、まずこういう先駆者たちの存在があって、そして次のブレイクスルーは、メディアとファッション業界の変化。ムスリムイスラム教徒)向けの雑誌が創刊され、ムスリムファッションのブランドを立ち上げるデザイナーが現れ、ユニクロなどのアパレル大手もムスリム向けの服を作り始め…と、どんどんビジネスが育っていく。この辺り、読んでいて興奮しますよ!しまいには、それらのムスリムファッション向けのビジネスを政府が支援するまでになるんだよね。日本のクールジャパン政策みたいに(いや、これと比べたら失礼か)、インドネシアが世界のムスリムファッションの中心地になるべく、様々なバックアップをしていく。

それから、ムスリム向けの小説。日本で言うライトノベルやジュニア向け小説みたいな分野がインドネシアにもあって、そこで、「少女が様々な経験を経て、良いイスラム教徒になっていく」みたいな、イスラム教をテーマにした作品が多数生まれていく。最初は奇異な感じがしたけど、よく考えたら西欧でキリスト教をテーマにした作品ってたくさんあるからね(『アルプスの少女ハイジ』も、原作は「おじいさんが神の存在に触れて改心した!」みたいなキリスト教色が濃い)。それが一時期かなり盛んになって、それ専門の雑誌まであったんだって。

で、すごいのは、これらのビジネスに携わっているムスリム女性たちも、単なるビジネスではなく、やっぱりその人なりのダアワ運動だとしているところ。大衆にこうした運動が広がっていくのは、やっぱりサブカルとかファッションというのは欠かせないんだなあ。

 

 

 

『老後ひとりぼっち』意外にも元気が出る本だった!

 

老後ひとりぼっち (SB新書)

老後ひとりぼっち (SB新書)

 

 気が滅入りそうなタイトル。ページをめくるとまずは、独りぼっちの老後は誰にでも訪れるものだということから始まる。そうだよなあ。たとえ家庭を持っていても、核家族で子供が独立して連れ合いが亡くなったら間違いなく独居老人だものね…などと我が親や自分自身のことを思い浮かべていると、次は「老後ひとりぼっち」の人たちのインタビューが続き、受取額の少ない国民年金で四苦八苦している人や、自立したキャリア女性の寂しい老後やらでますます暗い気持ちになり、「老後ひとりぼっち」の前に立ちはだかる保証人制度、家を借りるにも有料老人ホームに入るにも、そして入院手術に至るまでも「保証人」を要求されるという困難が書かれているあたりから、「あれ?」という感じで、本のメッセージが力強く上向きになっていくんですよ。

保証人制度で身動きが取れない、家を借りるために疎遠になっていた身内に頭を下げなければならなかった実例などが紹介され、「あああ、そんな風になったらどうしよう」「なんでこんな世の中なんだ」と嘆いていると、著者の松原さんは、実は病院や大家が保証人を要求することに法的根拠なんて何もない。そんなことがまかり通ってきたのは私たちがおとなしく従ってきたからだと。「単身高齢者であるわたしたちは、『しょうがない』と言ってないで、次の世代の人たちが生きやすいように、他者を頼らないでも生きられる社会に変革していく義務があるように思う」と。嘆いているのではなく、声を上げて行動を起こしていこうと言うんです。私はこれを読んで「そうか、そうだよね!」と思い始めました

で、現状、入院手術で保証人を要求されてるんですけど…という人への具体的な対応策も書かれている。まずは「独り者なので身内はいません」とはっきり言うこと。「身内はいることはいるんですが、頼みたくないんです」などと余計なことは言わない。これで断られることはまずないが、もし断ってきたら、逆にろくな病院ではないのでさっさと他の病院をあたること。それから病院が保証人を要求するのは、治療費のとりっぱぐれを心配してのことなので、「治療費を先に預けさせてください」とさきにお金を出してしまうこと。

このような感じで、家を借りるときの対策も書かれています。

そして、悲惨な「老後ひとりぼっち」にならないための20の提案。私的には名言の宝庫で面白かった。例えば「おばさんと仲良くなる」の項では「男性の皆さん!若い女性は、あなたの目を癒してくれるかもしれないが、何の役にも立ちませんよ。あなたの老後を楽しいものにしてくれるのは、おばさん、おばさん、おばさん!声の大きい、三段腹のおばさんですよ!」とか(すみません、「!」は私がつけちゃった)w

それからこれ「私はここで大きな声で言いたい。『60過ぎたら、恋はないのよ』。60からは、恋の相手ではなく、同志なのだ。はっきり言うが、『男』にこだわる男は女性から嫌われる。性別を捨てた男性は、女性から好かれる。ここをよく学んでほしい」わかるー。

私が自分でぜひ覚えておきたいと思ったのは「寂しい見た目から明るい見た目に変える」「見た目が変われば、生き方も変わる。これは本当のことだ。もし、寂しい老後ひとりぼっちの人生は送りたくないと心から思うなら、ぜひ、見た目を変えることをお勧めしたい」。これ確かに大事だろうなあ。見た目で判断してしまうって確かにあるし、不潔で薄汚いお年寄りではなくて、清潔で明るいお年寄りに好感を持つし、自分でもそうなりたいし、そうであること自体が幸せな日々を作るように思う。

ただ、おしゃれって体がきついとそんなにエネルギーかけられないでしょ?そこで本書の提案は、まずは服の色から変えてみませんかと。「服装と言うと、センスと捉えられハードルが高く聞こえてしまうかもしれないが、そうではなく、色が重要ポイントなのである」「中高年は顔がすでに茶系なので、これ以上茶系にしたら、本当に土偶にしか見えなくなる」土偶ってwwいやーでもわかるわ。

心強く思ったのは病気の心配をするのはやめて神様におまかせしてしまおうというところ。「考えても考えなくても病気になるときはなる。この分野は神様の領域だ。そう思ったら気が楽になった」。とはいえ「と言いながらも、気になる症状があるときは、クリニックに行くつもりでいる。そう、わたしは言っているほど豪快ではなく、小心者なのだ」ですよねー。普段からくよくよ考えがちだからこそ、基本的には神様にお任せという気持ちでいようってことなんですよね。

「老い先を考えて暗い気持ちになる問題」対策は、「今やることで頭をいっぱいにすれば、悪い妄想を追い出せる」。「先の心配をするのはよそう。頭ではわかっていても、なかなかそう簡単には実行しにくいが、先の心配は頭の中で作り上げた妄想に過ぎない。先の心配をするとき、目先にやることがない場合が多い」「やることがある。行くところがある。会う人がいる。年を取ればとるほど、ひとり暮らしが長くなればなるほど、大事なことになる」。覚えておこう!

共感したのは「孤独死だけは避けたい思い」「死後何日もして腐敗されてから発見されるのを極端に恐れる」ことへの「えー、なんでー?自分、死んじゃってるんだからわからないじゃん」というところ。ほかの人はともかく、こと自分自身に関しては松原さんに共感しました。

で、大事なことは、「悲惨な老後ひとりぼっち問題」の問題というのは、政治を抜きに考えられないということ。まず年金からしてそうですものね。先ほどの保証人制度にしても、今の不自由さというのは、私たちが声を上げず「しょうがない」「どっちでもいい」「おまかせする」と抵抗しなかったから。逆に、声を上げていけば世の中は変わるだろうし、これからはぜひそうしていこうと。さらに「老後ひとりぼっち」の孤独問題ということでも、例えばデモや集会とか社会活動に参加することで、同じ価値観を持つ友達ができる。

老後の問題って、つい受け身な態度で嘆くばかりになりがちだけど、本書を読んでいると「ちょっと、嘆いている暇があるのなら前向きなことをやってみたら?」と発破をかけられているような、元気な気持ちに方向転換されていきます。

『ヘア・カルチャー もう一つの女性文化論』

 

ヘア・カルチャー―もうひとつの女性文化論

ヘア・カルチャー―もうひとつの女性文化論

 

 髪の毛っていうのも不思議な存在だよね。

人間の体に生えた木や草みたい。自然と社会性の交差点。堅苦しい場ほど、きちんと手入れしてその自然を御さなくてはならない。男性は女性よりも自然から遠のいて生きている場合が多いので、髪は常に短く刈り込む。女性でも、例えば皇室みたいな堅苦しいところに嫁いだら、自然に下ろすヘアスタイルから、スプレーでカチカチに固めたような髪型になる。

本書はアメリカのヘア文化(特に女性の)を論じたもの。すごく面白かった!

アメリカでは、ヴィダル・サスーン上陸以前の50年代、60年代前半くらいまで、髪というものは乱れてはならぬとばかりに、技巧的に盛り上げた髪の毛をスプレーでガチガチに固めたのが良しとされていたんだって。そういえば、あのマリリン・モンローもセクシー女優の割には髪型は意外にもロングヘアじゃなくて、ガチガチ固め系だったんだよね。

ヴィタル・サスーンは、従来のように「あるべき髪型」に人を当て嵌めるのではなく、その人の頭の形に合わせたもので、カット後もいちいちセットしなくてもいい再現性の高いカットを始めた人。今や当たり前になった考え方だけど当時は革命的で、反発も強かった。サスーンがアメリカで美容院を開くときには、美容監査局というまさに「髪型はこうあるべき」を象徴する役所との闘いがあったそう。この闘い、ヴォーグをはじめメディアは総じてサスーンの味方だったけど、著者によるとその他ほとんどのアメリカ人は美容監査局の味方だったのではと。

アメリカの地方ではこの本が書かれた90年代当時も、この美容監査局的な流れがあって、どんなに都市部のおしゃれな人たちからダサイとバカにされようとも、逆毛を立てて膨らませスプレーで固定したヘアスタイル(ビッグヘアというそうです)は根強い人気で全然廃れないんだって。

ちなみにこのビッグヘアはカントリーミュージックの歌手なんかにも愛好されているそう。日本で言うと、たぶん演歌とかヤンキーとか、ああいうテイストなのかもしれんね。

あとは髪色の考察にも多くのページを割いてる。前からアメリカの芸能界隈の記事を見かけると「おまいら、金髪で胸が大きかったら誰でもいいと思ってるんちゃうか!」なんて思っていたけど、まんざら外してなかったことがわかったw