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『老愚者考』矛盾についての話

昨日読み終わった『老愚者考』から、「矛盾」について共感したところを抜粋します。

・慈悲深い自然という神話に導かれ環境保護に尽力している人が、同時に車に熱中していたり、進歩信仰者が世界没落幻想に魅惑されていたりしても、それは悪いことではありません。それによって危険な一面性が防がれているのです

・魂的なものに関する陳述を数学的基準によって判定できると信じている人だけが、哲学内部や哲学と行為との間にある矛盾に憤慨します

・矛盾は互いに補完し合う神話を含んでいるのです。矛盾がないと、病理学的一面性の疑いがあります。矛盾のない人には、用心すべきです

・今まで法学者も、心理学の領域における「矛盾のなさ」に単純にしがみついてきました。彼らはたとえば―証人・被告などの―陳述の信頼性基準のひとつとして、矛盾のないことを用いました。今や次第に法学者も、意図的にうそをついている人だけが矛盾なく語ることを理解…

・想起は魂の行為であり、経験したことを背景の神話に応じて歪曲します。想起したことを偽らずに語る人は、いつも歪曲された矛盾したことを語っているのです。略 正直な想起において、赤いスポーツ車はあまりにも速く走り、ポンコツの二気筒車はゆっくりと走ります

・わざとうそをついている人は、矛盾に陥らないように注意を払い、正直な証人は矛盾のある想起をします

私もこの矛盾の話に同感で、人間というのはもともと歪みとか矛盾を抱えているのが自然なんじゃないかと思っています。

上に引用した中に「法学者も意図的に嘘をついてる人だけが矛盾なく語れることを理解している」というものがありましたが、日本の司法の中では全く通用しなさそうですよね。よく聞く検察での取調べでは矛盾イコール嘘とか怪しいことになってしまっているよう。取調べの話を聞くと、普段から説明可能な行為しかしてはいけないような感じがして怖くなってしまいます。

例えば、「見る」という行為は目のレンズだけで行うわけではなく、一回脳のフィルターを通さないと「見る」行為は完成しませんよね。これなんかも、人がものごとをありのまま見られない宿命、自分の中の神話を通さないと物事を認識できないことを意味しているような気がします。

エックハルト・トールやブッダの教えは、なるべくこの「神話」に囚われず、ありのままを見なさいということで、それは身体の感覚に意識の重点を置くことである程度叶えられると思いますが、人生全てを自分の神話(思い込み)抜きでありのままを体験するということは不可能です。

私の推測ですが、ブッダもエックハルト・トールも、無理なことを承知で、でも人間は放っておくと蒙昧な神話の世界に溺れてしまうものだから、このくらい強めに言ってちょうどいいくらいに考えているのかもしれません。

矛盾のなさや、一貫性を過剰に追い求めていくことの不自然さは、自然界に直線が存在しないことと似ているのかな。

ただ、あんまり認知の歪みや矛盾を放置しておくとコミュニケーションが困難になりそうだから、そこは「人間とはそういう矛盾を抱えてるものだ」ということを前提にして刷り合せていくのがいいのかなと思います。


ちなみに『老愚者考』とはこちらの本です。http://t.co/1qRsZ8IU 
わたしは図書館で借りてきました。こういうなかなか書店にはない良書が気軽に借りられることが図書館の存在意義です。ありがたい。