淋しい老人を見た

淋しい老人について考えてる。

二つの例を見た。

一人は、事務所の隣人である。
詳しくは書けないが、郵便物の誤配トラブルでしつこく絡んできた。
根っから意地悪をしてやろうというわけではなく、親切の押し売りをしようとした結果、思い通りに事が運ばずにこじらせてしまったようだ。
ちなみに職場のあるビルは住まいとして入居している人もいる。

二人目は、私が図書館で会ったおじいさんである。

図書館の料理書棚で本を物色していたところ、隣に気配を感じた。
私自身は動かず、気配を感じるままにしていたらおじいさんの声で話しかけられた。
「日本料理の本はどこですかのう」
ちょっとうろ覚えだけど、こんな感じのいかにもおじいさんな感じの喋り方だった。
「ここです」私は日本料理の棚を指した。

おじいさんは棚から一冊抜き取ってパラパラ眺めていたが、明らかにまだ私と話をしたそうだった。
邪推だが料理の本自体には興味はなかったんじゃないだろうかと思う。

おじいさんは本をパラパラしたあと、私に向かって「こういう本は難しくて」と言った。

続けて以下のようなことを話した。
「いま92歳」
「一人で料理をしている」
「おかずなどは面倒なので作らない」
「だから炊き込みご飯などを作っている」
「高い米を買う」
「でもすぐお腹いっぱいになる」
「いま92歳」

一通り話を聞き終わったので、「それでは失礼します」と一礼してその場を辞した。


「老人は淋しい」とよく聞く。
「淋しい老人になるのが怖い」もよく聞く。
私自身も、少し前によくその恐れを持っていた。
(なぜいまはその恐れを持っていないのかというと、単に別の恐れに置き換わっているだけである)

なぜ「淋しい老人になるのが怖い」のか。

それは今の私達からみて「淋しい老人」がまったく魅力的な存在ではないからである。
私達が淋しい老人のことを嫌いだからである。
自分が嫌いな人間になりたいなんて人間がいるだろうか。

「淋しい老人が嫌い」ということには抵抗感がある。
酷いことを言っていると。
ただ、私が図書館で会ったおじいさんの話を聞いていたとき、それは「聞いてあげている」という意識で、「この人の話を聞きたい」と積極的に関わりたいという気持ちではなかったことは確かだ。


ここで思うのは、そもそも人は老人になると淋しくなるものなのか。
もともと一人が好きだったら、そう取り乱すことも無いのではないか。
それとも肉体が老いて死が間近になると、突如淋しさに襲われるのだろうか。
もしかしたら、「淋しい老人」というのは、若いころにはいわゆる「リア充」で、いっぱい人に囲まれた生活をしていたので現状の周りに人がいなくなった状態が淋しくて仕方がないのではないだろうか。昔は今よりもコミュニティが濃密だとのことなので、この節はなかなかいい線行ってるのではないか。

例えば今回二つの例を挙げたが、このお二人が淋しいもの同士で会話したらどうだろうか、などというのは無理な話である。互いに相手の話など聞く気はないからだ。


と、いろいろなことを考えみてはいるが、結局はよくわからない。
無理矢理結論を出すこともなかろう。
私自身、10年前と今では考え方がかなり変わってきている。
昔ほど「若さゆえの傲慢さ」で物事をさくさくと結論づけてきた。
いまはその態度を反省して、わからないものはわからないままで保留することにしている。
「淋しい老人」問題も、自分自身が老いに近づいていくことでいろいろと見えてくるものがあるのではないかと思う。