『輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか?』

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

1)『資本論』を翻訳した二つの流派。

以前、ツイッターで「哲学書が難しいのは翻訳が悪いから。日本語訳は意味不明なのでむしろ英語で読んだ方がマシ」という発言をされている方がいて、なるほどなあという思いが頭にずっと残っていました。そこで、この本を見つけたのでさっそく読んでみました。

そういった読みにくい翻訳書の代表作として、まず取り上げられているのは『資本論』。この本の翻訳には二つの流派があったんだって。

一つは高畠素之さんという人。佐藤優さんによると、後にナチスっぽい考え方になっちゃう人らしいんだけど、まずはこの人ね。高畠さんは独学でドイツ語を学び「読者への読みやすさ」を重視して翻訳したんだって。本は商品だから売れてなんぼ、読者に受け入れられてなんぼ、という考え方ね。

もう一つはアカデミックな学者さんたちの勢力。読みやすさよりも原書への忠実さを重視。ドイツ語の単語を一つ一つ日本語に対応させる逐語訳。原文が長ければ訳文にも読点をつけない徹底ぶりで、おかげでめっちゃ読みにくくなったんだって。

私からすると、もうこの時点で「高畠さんがんばれ!学者めクソなことしおって!」という気分です。
けれども、やっぱりアカデミック勢力が強くて、逐語訳の方が正統みたいになっちゃうんだよね。


2)日本の近代化はドイツに倣って官僚主導に

その話が終わると、本書では次にドイツ教養主義の紹介から日本の近代化の話になるの。ドイツの近代化はフランスのように市民革命ではじまったものではなく、官僚主導だったんだって。で、日本もそれを真似したの。明治維新から途中まではイギリスモデルで行くか、ドイツモデルで行くかという選択肢があったんだけど、政変でイギリス推しの大隈重信たちが負けて、伊藤博文たちのドイツ推しが勢力を握っちゃうのね。


3)内側からの近代化、下からの近代化

でも日本の近代化が薩長勢力による政府からの押しつけ一辺倒になったのは途中からの話。江戸末期の徳川体制はやっぱりそれなりに腐ってたから、徳川期の知識人による内からの近代化と豪農や世直し運動の人たちの下からの近代化という勢力もあったの。

ちなみに内側からの近代化を代表というか継承する知識人は福沢諭吉ね。福沢諭吉は「道徳や倫理をあたかも自然法則のごとくあつかう封建教学を排し」「経済活動が個人にもたらす幸福感や物質的充足を否定的にみるべきではない」という考え方をしてたの。だから新政府には期待していたものの、倒幕派の「ずっと鎖国してようぜ!」とか「商売なんて卑しい!」という考え方は嫌だなって思ってた。

下からの近代化では、明治10年代に豪農層の間で学習運動の波が起こったことがあげられるよ。その各地の豪農層で福沢諭吉やルソー、ミル、スペンサーの読書会なんかが行われたんだって。著者の鈴木直さんは「この学習と対話がそれ以後の翻訳文化にもう少し寄与してたら翻訳書のスタイルももっと違ったものになったんじゃないか」と言ってたよ。


3)明治政府による文化の弾圧

せっかくこういった豊かな流れがあったのに、明治政府が強固になるに従って下からの近代下も内側からの近代下も弾圧されていくの。ほんっとに、ロクなもんじゃないね。

新政府の官僚たちは「西洋化による富国強兵」という単純な目標を追いかけるあまり、みんなが昔からしてきたこと…例えばお正月の地元の行事とか、縁日とか、村歌舞伎とか、春画とか、三味線とか、乞食への施しとか、そういった色々なことを「文明半開の愚民たちの慣習だ!」とことあるたびに止めさせたんだって。一説によると「この明治時代の野蛮な弾圧でそれまでの日本の文化がいったん途絶えてしまった。それ以降の文化は魂が抜けたものだ」なんていうのがあるよね。

で、なんでまたそんなことになってしまったのかというと、新政府のリーダーの多くが下級士族の出身者だから。こいつらの世界は消費の楽しみや官能的経験から切り離された質素な生活で、忠誠かとか滅私奉公の世界。堅物の野暮天。私からすると文化の破壊魔。

「そういえばこの本『輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか?』ってタイトルだったじゃん!」というあなた、そう仰る気持ちもわかります。一見回り道をしているようですが、これが「なんでへんてこりんな翻訳になっていくのか」にちゃんと繋がっていくんです!


4)バカにされたくなかった田舎侍

で、これからが「なぜ日本はへんてこりんな翻訳文化になったのか」の核心部分です。

東京に乗り込んできた新政府の官僚たちは、江戸下町の庶民から「無教養な野暮天の田舎侍」とバカにされてたというところもあったの。そりゃあ、粋みたいな概念を理解できず、楽しみや文化的なことをことごとく禁止しようとするんだから野蛮人以外のなにものでもないよね。

新政府の官僚たちだってバカにされるのはわかるから、そうならないために、この庶民どもにすげーって思わせるために外国語の知識や文明の利器を利用することを思いついた。「外国の知識」や「文明の利器」という虎の威を借る狐だね。

文明開化は新支配層の文化的コンプレックスをごまかす絶好のアクセサリーとなったんだ。これで答え出ちゃったね。翻訳本は民衆へ広く知識を伝えるものではなく、自分たちにしかわからない高級なものだとすることが目的になっちゃった。これじゃあ「わかりやすい翻訳を」なんてならないよね。

こうして「豊かなコミュニケーション・ネットワークを享受する下町庶民への対抗戦略として、山の手階級が西洋的教養を振りかざす」という図式は、以後長きに渡って、日本の教養主義をめぐる基本構図になっちゃったんだって。

その後も「偏執的な逐語訳と受験英語の相性の良さ」とか、「翻訳者の偉い先生を前にして編集者が何も指摘できない」などという要因がさらにその状況を強固なものにしていったんだそう。

※こちらには書きませんでしたが、本書にはカント哲学のわかりやすい解説もあったりして、とても勉強になりました!あとでメモ的にブログに記そう。