『堕落する高級ブランド』高級ブランドが高級ブランドらしくいられる社会とは

 

堕落する高級ブランド

堕落する高級ブランド

 

 

ある時期まで高級ブランドは限られた上流階級のものたった。ある時期からそのイメージを利用したまま世界的なビジネス展開のゲームに参戦した。その変わり目は80年代後半から90年代初頭にかけて。創業者は追い出され、巨大資本が経営の座についた。

上流階級の物というのは高級品という一方で、保守的で古臭いイメージもあった。前者のイメージを抱えたまま後者のイメージを払拭すべく、各ブランドは挑発的でセクシーなキャンペーンを打った。

私もこの辺りは当時、雑誌を見てても確かに不思議だったことを覚えている。高級ブランドを謳いながらもSMショーのような下品で扇情的な広告。本書にもその矛盾には触れられていて、どこかのブランドの創業者一族の人はそれを見て卒倒しそうになったそう。

本書は「高級ブランドけしからん」という読み方もできるけれど、「高級ブランド」のビジネスモデルを見る本としても面白い。また、そういった中で一応まだ良品質を保っているブランドはどこで儲け主義に走りまくったブランドはどこなのかという情報を得ることもできる。

いわゆる高級ブランドの名に恥じない、哲学を保った物作りをしているのは圧倒的にエルメス。その次にシャネル(エルメスよりはだいぶ劣るけど)。そして、一番理想的なブランド作りをしているのがクリスチャン・ルブタンという靴メーカー。意図的に会社の規模を小さく抑え、経営とデザインが同一人物という稀有な例。コーチというアメリカのブランドは、もともとは地味で保守的な鞄メーカーだったものが、大資本に売却されたことでマーケティング主導で高級ブランド的な位置に引き上げられた。こういった各ブランドの成り立ちやビジネス戦略を知ることもできる。

ほとんどの高級ブランドが中国で生産されているが、この本が出版された2000年代の時点ではどこもそのことを公表していない。中国で生産している事実は明かさないことを生産者との契約条項にこっそり盛り込んでいるほどだ。そんななかで「うちは中国で作ってるけど何か問題ある?」とぶっちゃけてるのがアルマーニ一社のみ(というかアルマーニ本人)だというのも面白かった。

ちなみに「コピー品への罪悪感が薄いのは中国人ならでは」みたいなことはよく言われているけど、こちらの本によるとアメリカ人も負けてない感じだった。アメリカでは「バッグパーティレディ」と呼ばれる、ニューヨークやロサンゼルスにあるコピー品市場のようなところでコピー品を大量に買いつけ、地元でパーティを開いて売る人たちがいる。彼女たちもそれを買う人たちも大半はそれが悪いことだとは思っておらず、時にはチャリティの一環として即売会パーティが開かれるのだそう。そういった人たちへの聞き取り調査では3分の1が「品質がよければ偽物でも買う」と答えている。

そんなわけで高級ブランドはどんどん民主化し、品質・ブランドイメージ・価値などのバランスはけっこう危ういところで保たれている。民主化といえば、現在ではファストファッションの代表であるH&Mと高級ブランドのデザイナーがコラボするまでになった。

本書の最後に「じゃあ、本当の金持ちはどこで何を買ってるの?」という話が出てくる。その答えの一つに「ダズリュ」というブラジルの高級ブランドのセレクトショップが紹介される。古きよき時代のブランド店のように、顧客はゆっくりとお茶を飲みおしゃべりをしながら品物を選び、売る側も顧客の好みや生活状況を把握している。ただし、そこで売り子として働けるのも顧客として来られるのも同じ上流階級の人間に限られる。ブラジルは国の最貧困層が人口の40%をしめ、彼らは国の財産の8%しか所有しておらず、スラムに住んでいる。彼らを尻目に最富裕層はダズリュで優雅に買い物をする。ダズリュの中は桃源郷だけれど、ここから外に行くときには、カージャックを恐れるあまり赤信号でも突っ走り、決してウィンドウをおろさず、ほとんどの車には日焼け防止ではなく安全のためにスモークガラスをつけている。そもそも彼ら金持ちは危険を恐れてあまり外出をしない。

訳者さんによる後書きには「たぶん著者は、少女のころ魅了された美しい高級ブランドの服やバッグや香水が、陳腐なモノに変わっていってしまうのがあまりに悲しかったからにちがいない。ファッションを、また高級ブランドを愛しているからこそ書けたし、書かなくてはならないという使命感に燃えた、という情熱がひしひしと伝わってくる」とあったが、私は著者がブラジルの例を終わりに持ってきたということは、高級ブランドが高級ブランド然としていられる社会というのは、こういったえげつない格差を前提にしているということを言いたかったのではと解釈した。もっとも、私のような短い付き合いの読者よりも、訳者さんの方が長期間どっぷりと著者(の作品)と付き合うわけだから、理解の深みは違うだろうと思う。