食の本質とは『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』

 

なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学

なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学

 

 実は今眠くて朦朧としているのですが、とにかくこの本の感想は書いておかねば!ということでブログに記しています。読んだままにしておくのがもったいない。

ちょっと手にとったところ、摂食障害の人の体験談が載っているのかなと思ったのですが、それも確かにたくさん載っていますが、読み進んでいくと、摂食障害の原因や解決方法が書いてあるわけじゃないんですよ(それらも書いてあるのですが)、もっと本質的なことが書かれていました。私つい摂食「障害」と書いてしまっていますが、それも本書的には違うだろうなと思います。文化人類学の視点なんだそうです。

私自身は食について、本書で体験談を話している人たちのようなところまで苦しんだことはなく、どんなときでも食の楽しみをなくしたことはない、食べることがかなり好きな人間です。ただ、ダイエットをしているときの食べ物に対する不自然なつきあい方とか、スナック菓子を食べながら頭がボーっとして解放される感じとすぐ後にやってくる罪悪感や自分が汚れた感覚とか、やっぱり摂食障害の人の体験と地続きなところがあり、体験談を読んでいても「あーこれわかる」みたいなことが多いんですよね。

本書を読んでいる最初の方で

摂食障害の体験談読んでたら、母親の問題をそのまま子ども(大体は娘)が被ってなるケースが多いんだなあT_T 

 というツイートをしました。

そうしたら、実はそれって

摂食障害の原因で広く受け入れられているものは国や文化によって違うとのこと。例えば日本では親子関係が大きな原因というのが受け入れられいるが、シンガポールでは摂食障害の原因は欧米化の影響、伝統的な価値観と欧米的な価値観の矛盾が主な原因であるという説が受け入れられている。 

 ということで、かなりローカルな社会的、民族的な言説なんだって。

日本で「母親が摂食障害の原因だ」という見方が受け入れられた時期は、主婦にとらわれない生き方をする女性が批判され始めた時期でもあり、両者がかぶってたんだよね。

戦後の日本は極端な男女分業が推し進められて、その中で子どもや夫の健康は妻の責任という考えが広がった。時代が進んでその状況が崩れ始めると、逆に母性が何かと強調されるようになり、そこから逸脱した生き方を選ぶ女性に批判の目が向けられることになった、母親が原因説にはそういう背景があったんだって。 

一方シンガポールでは、日本とは逆に女性の労働が奨励された。人口の多くを占める中国系シンガポール人の間には、母親が子育てに一切の責任を持つという思想が日本ほど色濃くないので、摂食障害の問題を母親に還元する論調が薄いとのこと。

まあ、実感として親、特に母親の重圧は子どもから20代に至るまでかなりキツかったので私自身もお母さん原因説はそうかと思ったりも住んだけども。ただ、母親原因説がメジャーな地位に落ち着くと、今度は当事者の方から積極的に「やっぱり母親が原因なのかも…そういえばあの時…」と、自分の記憶や物語をどんどんその説に寄せていっちゃうんだって。

あと、食の本質について。これがこの本の特に素晴らしいところだと思った。今現在を生きていると、食というのはまずカロリーとか栄養とかそれらを意識してきちんと自己管理しながら食べるのが正しい食のあり方だと思ってしまうんだけど、実は食というのは栄養の摂取ではなく、社会性とか人とのつながりを作り出すことこそ本質ということ。確かに、栄養を摂取して命をつなぐという意味では、人間はすごく不合理だったり無駄なことばっかりしていて、なんでだろうとう疑問を以前から抱いていたので納得しました。(貧しいのに、来客やイベントでは無理やり大ごちそうを用意したり。合理的に考えるなら「その食べ物備蓄しときなよ!」と言いたいところです)

あと、摂食障害を抱えている人が「価値の無い食べ物(イコール過食嘔吐とかチューイングをしてもいい粗末な食べ物)」として共通認識としてあるのが「菓子パン」とのことでした。もちろんパン屋さんのではなくて、コンビニやスーパーで売っている大量生産のやつです。それは確かにあるなあ…カロリーだけやたらとあって栄養的にほとんど価値の無い食べ物の代表って感じだからな…と思いつつ、なんとなく菓子パンが哀れに思えてきたのでした笑