『評伝 ナンシー関 』と、現代サブカル考

この本はよく書店や図書館の棚で背表紙を見ていたんだけど、てっきりナンシーの過去の作品を集めただけのものかと思ってました。そうしたら横田増生さんによる、まさに評伝だったんですね。

私も当時、ナンシー関の大ファンで、週刊朝日週刊文春の連載を心待ちにし、他の連載や単行本を見つけると喜んで読み漁っていました。

本書はナンシーを個人的に知る人たちのインタビューを中心に、仕事でのナンシー、芽が出る前のナンシー、家族から見たナンシー、子ども時代のナンシー、高校時代のナンシーを見ることができます。

あー、高校時代にナンシーと友だちになっていつもつるんでたら楽しかっただろうなあ。面白くてマニアックな遊びに耽ったりして。ナンシーの呼び名が「関」って名字の呼び捨てなのもキャラ通りという感じでイイ!

あと本書は都内で一緒に生活していた妹さんが全面協力して下さったそうで妹さんのインタビューがよく出てくるんだけど、ナンシーのお姉さんぶりもよかったなあ。ベタベタしないし干渉しない、だけど漢気があって頼りになる姉で。ナンシーが家族って羨ましい…けど早く亡くなってしまうのは悲しいなあ。

…と、いたって好き勝手な感想を書いてますが、もう一つ書くと、サブカルってやっぱりあくまでもサブ、社会の周縁的な位置にいるべき存在なんだなあと思いました。例えば、ナンシーがうっかりコラムに書いて思いの外叩かれてしまった(当時は叩かれたって言い方はあまりしないので、抗議が殺到したの方がいいかな)「ベビーカーを押してる母親は自分の絶対的な正義に酔いしれてる」というもの。ちなみにこのコラムは私も覚えてる!いまは母親となった私も勝手なもので、当時は「そうだそうだ」なんて読んでいたんですよね!

この出来事についていま思うと、子どもを作って命をつないでいくのは個人としてはともかく、社会全体としては必要不可欠な営みなので、それを否定する言説がメインストリームに出てくるとやっぱり否定されることになるのかなと思いました。

で「そうか、だからサブカル、サブのカルチャー、傍流の文化なのか!」と、自分の中では得心がいったのですが、果たして他の方もうなづいてくれるものなのかどうか…。

サブカルというのは、あくまでメインカルチャーがしっかりしてるという前提で、その周りで子どもがうそぶいたり大人をからかって遊ぶ感じでメインカルチャーをからかうことで平和に共存できるのかなと。

ある時期から日本社会のメインカルチャーが脆弱になってきて、本来はサブカルの住人であった人たちが発言力を持つようになってきて(お笑い芸人がメインストリームに進出してきたのと連動しているのでしょうか)、まあ、これが意味時代の変わり目なんでしょうけれど、その中で、昔のサブカル気分のままでいるのに思いっきりメインに出てきてしまった人たちが、「母の自己陶酔」とか「権力に刃向かう自己陶酔」みたいな発言をしてしまうのかなと。メインカルチャーがしっかりしていた時代は、こういう発言もそれほど多くの人の目にとまることもなく、同好の士というかサブカル界の中で「そうそう!」と盛り上がっていられたのかなと思います。