『ラッセンとは何だったのか』 現代美術の裸の王様的側面が露呈

ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」

ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」

ラッセンほど「何だったのか」が合う人もいない。

私にとってのラッセンのイメージは禍々しいものでしかない。
繁華街での怖い客引き。
ゲームセンターとかパチンコ店のようなセンスの毒々しい絵。

それから、これは私のごく個人的な体験談になるが、2000年代に私は占星術を勉強し実占もしていた時の話だ。占星術界は、今でこそ石井ゆかりさんの活躍などで、ライトで押しつけがましいものではなくなったが、10年前は、妖しげでしかも押しつけがましいイメージがあった。おそらく当時、占星術の教科書類を出版していた魔女の家ブックスのセンスの影響が強かったと思う。私をはじめ一部占星術愛好家はそういった妖しげなイメージを払拭しようとしていた。
その私たちのイヤがった旧世代の占星術愛好家のセンスとラッセン絵のテイストが共通しているように思った。
参考:

愛情占星学 (アメリカ占星学教科書)

愛情占星学 (アメリカ占星学教科書)

そんなことを考えていたら『ラッセンとは何だったのか』32ページに、昔の科学雑誌にはよくラッセンを彷彿とさせるイラストがあったという発言があった。科学雑誌といえば学研→学研といえばオカルト雑誌「ムー」→オカルトつながりで占星術、という流れがあったのではないかと考えれば、占星術業界にラッセン的なテイストがあったというのも、それほど的外れではないだろう。

このように私のラッセンのイメージはネガティブなものでしかなく、まさに「ラッセンとは何だったのか」という思いで本書を読み始めた。

ところが『ラッセンとは何だったのか?』を読んでいると「ラッセンを好む人は現代美術のコンテクストが理解できない人。ラッセンはそのコンテクストの外にいる」というよう記述が度々登場し、ラッセンを揶揄したいと読み始めたのに「アートの文脈なんか知るかばか!素朴に素敵なものを観たいんじゃぼけ!」なんていう気持ちが芽生えてくる。

岡田斗司夫さん曰く「現代美術とは美大を出て論文を書いてること」だそうで、これは批評家のことを言っているのかアーティスト本人のことを言っているのかはわからないが、「コンテクスト重視」ということは、学歴だとか海外で評価されただとか、そういった権威を重視してしまうことも含まれてしまうのだろう。

「作品自体を素朴に楽しむ」というのは、美術業界の中枢とその取り巻き(って誰!?)がバカにする美術館賞の態度で、そういう層から見れば、私自身もラッセンが好きな層と同じカテゴリーなのだと気がついた。(ただ、ラッセンが好きな層は、それはそれで「みんなが良いというから好き」みたいなまた別の権威主義があるとは思う)

ただ、目に快いものや刺激的なものが反乱する世の中で、現代美術の市場を維持していくためには、屁理屈で価値を盛りあげる必要があるのかなとは思った。

ちなみに、『ラッセンとは何だったのか』によると、日本で「美術」が社会的に価値あるものとみなされるようになったのは明治以降のことで、当時西欧に追いかなければと焦っていた明治政府が国民に「美術とは品格のある高尚なものなのであるぞ」と「教化」したのが始まりだということだ。