斎藤環 『原発依存の精神構造』メモと感想

私が常々持っている疑問で、なぜ原発事故以降でも原発をなくそうというコンセンサスがなかなか持てないのか、なぜ大きな選挙の多くが原発を推進し続けてきた自民党が勝利しているのか、なぜ放射能の被害について人々がいつまでもいがみ合っているのか、がある。
この本のタイトルを見つけて、これでこの疑問が解消できるのではないかと飛びついた。

結論から言うと、はっきりした答えは期待できない。

それは本書のタイトルがおそらく後付けで、もともと斎藤環さんが持っていた連載を書籍化したものだからだということと、斎藤環さん自身も震災後の刻々と移り変わる状況の中、揺れ動く心で書いていたというのもあるし、何よりそんなにわかりやすく単純な答えがある問題ではないからだろう。

斎藤環さんの別の著書『「社会的うつ病」の治し方』を読んだとき、「患者を治す」というテーマが明確で医者の立場でいることの盲点についてとても意識的だと思った。私のように哲学や精神医学の教養がない者でも理解できた。『原発依存の精神構造』もついそのわかりやすさを期待して読んでしまったのだが、こちらは専門的な記述がたくさん出てきてついていけないところが多々あった。それからこちらは『社会的うつ…』のようにそんな明確な対処法があるわけでもないし、斎藤さん自身も手さぐりというか、他者に語ると同時に自分に向けて語りかけている面も多々あるのかもしれない。
以下、覚えておきたいところのメモと感想。


■悪の主体に無頓着
本書の第二章に書かれたところを私なりの言葉で言うと(だからちゃんと著者の意図を理解しきれてるか自信がない)、西欧世界では「誰がそれをしたか」というような、主体をはっきりさせようという意識が強い。それが責任の追求とか、著作権のように誰の作品の権利を認めることなどに繋がる。
一方、日本人には「物事は自然に起こり、そしてそれは移り変わる」みたいな世界観がある。物事は誰のせいで起こるのではなく自然に起こるみたいな。それは「具体的に誰が起こしたものか」とか「誰が作ったものか」という意識の希薄さに繋がる。
このような価値観は原発事故についても「悪の主体への無頓着さ」につながっていくと考えられるとのこと。


■穢れと清め
これはツイッター上でもよく見かけた意見。例えば震災で出たガレキを被災地では処理しきれないので他の都道府県の焼却場へ持って行って処理する場合に、放射能が測定されないガレキでも現地の住民が反対すること。これは穢れ意識から来るものではないか。本書では穢れではなく「ケガレ」とカタカナで書いてあり、文中には特になかったけど何かそうした方がいいという著者の意図があったのだろう。私にはそれがなぜかよくわからなかったので漢字で書いてしまった。

「穢れ」にたいする「清め」については、放射能対策として出たデマ「ヨード摂取の名目でうがい薬が有効」とか「放射能分解水」などは「清め」の発想ではないか、とのこと。こういった、日本固有の呪術的な発想が原発事故処理の場でも出てくるらしいことが書いてあった。

清めの発想といえば、原発事故とは関係ないけれど、日本人が公共の場で何か良いことをしたいと考えるときにまず「ごみ拾い」が浮かぶのは、「清め」発想なのかもしれない。あと「部屋をきれいにすることは心をきれいにすること」もそれに入るだろうか。


■危険厨vs安全厨
引用121p〜122p
"まず真っ先に、そして常に批判の矛先を向けられるべきは政府であり東電である。しかし現状はどうだろうか。批判に対応しない政府にしびれをきらしたのか、不安を感じる人々との間に亀裂と対立が広がりつつある。初期に言われた「危険厨vs安全厨」にはじまり、反原発脱原発の側にも内部分裂が生じつつある。リスクそのものを生産している政府や東電以上に、リスクへの態度が異なる人々への攻撃性の方が先鋭化してしまうということ。この心理にはどこか「隣組」的な心性に通ずるものを感ずる。「大きな他者」のほうは棚上げにして「小さな他者」の非をあげつらうこと"

私もこの「大きな他者を棚上げして小さな他者の非をあげつらうこと」がとても気になっている。ツイッター上でもそういった批判をされている人がいたが、その意見に「"政府や東電に怒らないで一般の人に怒るのはどういうことだ"なんて的外れな批判はいいかげんにしてほしい。私たちは政府や東電に怒った上で一般人のわからんちんに怒っているのだ」という反論を見かけた…。


開沼博『「フクシマ」論』
ツイッターでとてもよく目にした話。「地元に残り原発を存続させていこうとする人(含・消極的存続)に対して外部の人が合理的な論理で説得しようとしても地元の人はますます心を閉ざす」という話。私自身は原発事故が起きた地元の人と直接話したことがないのでわからないのだが…ここの記述がある123から124ページは読んでいてもよくわからなかった。
ここで紹介されている開沼さんの著書の一部には「とにかく地元の人に徹底的に寄り添う」ということが書いてあって、それがここの節の答えみたいな感じなんだけど、ということはやっぱりこんなふうに本を読んで机上で色々考えても意味のないことなんだろうか…などと思ってしまった。ここの章は読みながらどうしたらいいのか考えているうちにどんどん迷宮にはまり込んでいくような感じがした。

■「安全vs危険」は「絶対的vs相対的」
引用127p
"例えば「放射性物質」について考える時、低線量被曝は体に良いとするようなホルミシス効果説から、絶対的に忌避すべき猛毒とみなす説まで、論点にはさまざまな幅がある。いずれの論者もそれぞれのエビデンスを持つため、議論は平行線を辿りがちだ"
"より正確に言い替えるなら「絶対安全という根拠がないので絶対に危険」とする立場と「絶対危険であるという根拠がないので相対的に危険」とみなす立場との見かけ上の対立である。お分かりの通り、ここにある本質的な対立は「安全vs危険」ではない。「絶対的vs相対的」の違いである"
私の教養不足のため、わかったようなわからないような…。とりあえずメモして自分の中においておくことにする。


■原爆で酷い目にあった人が超原発推進になる心理
『長崎の鐘』『この子を残して』の著者、長崎医科大学教授の永井隆さんは、原爆で妻を亡くし、自身も被爆して右側頭動脈切断という重傷を負いながら運び込まれてくる負傷者の治療にあたったという壮絶な体験をしながらも、後に原子力はおろか原爆の投下さえも肯定する。
永井さんの著書『この子を残して』では、"すると、原子爆弾は人類の居眠りをさます大気合いだったんですねえ"とまで言っている。
斎藤環さんはこれについて「その姿に、自らを傷つける加害者の暴力すらも愛してしまうような被害者の意識、すなわちトラウマの両価性を見て取るのはうがちすぎだろうか」と言っている。用語が専門的で私にはわかりにくかったけれど、DV被害者や虐待された子どもが加害者にむしろ愛着を感じてしまうような感じなんだろうか…。


正力松太郎原子力をわかっていなかった。
日本に原発導入大キャンペーンをはった正力松太郎という読売グループの会長だったことは知られている。その正力松太郎があれだけ原発推しになったのはアメリカの意向(CIAの後押し)と、総理を目指していた正力がポスト鳩山を狙うための目玉政策にいいと考えたことがある。
その正力松太郎自身は実は原子力については全くの無知で、ほとんど何も理解していなかったことをここの章では色々な本を引用しながら明らかにしている。

斎藤環さんは「謎だからこそ"象徴化"した」「無知ゆえに魅了された」と言っていたが、無知だとなぜ魅了されるのかがよくわらかなかった。苦し紛れに「謎めいた人物に惹かれる」というケースを思い浮かべてみたけど…矮小化しすぎではないかと我ながら思う。


■現代の陰謀とは
引用159p
"佐々木中円城塔の言葉を引用しつつ次のように述べる。
「円城さんが『今陰謀があるとしたら、分かっているものを隠す陰謀ではなく、分かっていないものを把握していると言い張る種類のものであるはず』と、極めて明敏に語っているんですね。とても感銘を受けました。なぜか。東電だろうと政府だろうと、事態の全貌を把握しているつもりで、実は判っている人など居ないのではないか、実際に事態の全体像を把握している人間などいないのではないか"
"こうした原発事故の状況や情報を『隠蔽』したり『秘匿』したりする人は、そうすることによって『自分が一体何をやっているのか』が判っていないのです。(中略)こういうときに警戒しなければいけないのは『俺は何でもわかってる』と騒ぐ人です"

これはとてもしっくり来た。私も同感だ。


原子力の享楽性?
本書には「原子力の享楽性」とか「享楽としての原子力」という言葉が度々出てくるが、話が専門的すぎてよくわからなかった。
「手が届きそうで届かない原子力技術」とか、「理屈の上では夢の技術なのに現実には全く叶えられてない」ということからなんだろうか…。これも苦し紛れにたとえてみると、ギャンブルとかFX投資をなかなか辞められない感じみたいなものなのだろうか…。


■これからの反原発は闘争ではなく交渉
引用185p
"そう、これからの反原発は−享楽的な−「闘争」ではない。それは数十年単位でなされるべき、行政や企業との政治的−反・享楽的な−「交渉」なのである。交渉相手を頭ごなしに軽蔑したり、口汚く誹謗中傷したりしているうちは、交渉のテーブルにつくことすらできなくなる"
"過激すぎる主張やパフォーマンスは、一時の煽動や自己満足としては有効であっても、長期的には内部分裂をまねき支持者を減らすことになる。そればかりか、「反原発の享楽」におぼれることは、ふとしたはずみで「親原発の享楽」に反転しかねない。(略) これは言い替えるなら、「享楽」に対して自覚的な活動、を意味する"

この主張に全く同感だ。
それから、ここにも出てきた「享楽」がわかったようなわからないような…またもや苦し紛れにたとえてみると、悪口や憎まれ口を叩くのは一時的に妙な高揚があるけど、それがここで言っている享楽なんだろうか…それとももっと深い意味があるのだろうか…。


まとめ
語尾に「…」が多いところに、私のもやもやした読後感が現れている。