『クーデンホーフ光子の手記』 シュミット村木眞寿美
本文よりも、シュミット村木眞寿美さんの思い入れというか存在感に圧倒される!光子さんよりも村木さんのほうが主役かもしれない。…おそらく、この感想は村木さんの本意ではないと思うけど、光子さんの本文が村木さんの思い入れの濃いプロローグとエピローグに挟まれてこそ一つの作品なんだと思う。前回読んだ『李香蘭私の半生』が山口淑子さんと藤原作弥さんとの共同作業であるように。
村木さんはドイツに住んで、ドイツ人の夫と子どもたちという家族を持っている。ドイツ語で暮らしながらも日本語とドイツ語のそもそもの思考方法の違いなんかもあって、ドイツ語ネイティブの娘さんに「ママ、何言ってるのかわからない」なんて時々言われてしまう。光子さんの手記には子どもからそんなことを言われたなんて書かれていなかったけど、光子さんの拙い手記を見ると、きっと子どもたちに「ママって時々何言ってるのかわからない時あるよね」なんて言われているんだろうな…と共感する村木さん。
こんな感じで、手記に直接書いていなくても、村木さんが「きっとこれはこうなんだわ」みたいな感じで、エピローグにどんどん書かれていたので、ほんとに書いてある字面だけ読んで「船の旅楽しそうだな」「クーデンホーフ氏みたいな、哲学や宗教に造形の深いインテリっておるよな」なんて思っていた私は、いやー浅い読み方してたんだなーと反省しました。
そもそも、これまでの光子さんの評伝や描き方では、持ち上げては貶されという経緯があったんだって。そういう、あるときには日本出身の貴族女性と崇められ、あるときには夫の精神世界をまるで理解できなかった無教養な日本女性と貶められと、評価が乱高下していたところ、村木さんが「よし、私が本人の手記を訳して等身大の光子さんを書いたる!」と手がけられたそうです。
それも、ハンガリーの公文書館に苦労して通いつめて、コピーができないのでその場で手記を読んで録音し文字起こしして翻訳。しかもこの手記を見せてもらうまでがまた一苦労という、大変な思いをして書かれたんだよね。手記を音読していると、光子さんが憑依したかのようにオーストリア風ドイツ語の発音になってしまったり、そもそも録音した自分の声が光子さんのそれのように聞こえてきたり。こんな思いをして書き上げた本だから、そりゃあ村木さんの存在感が濃くなるよね。