『満映とわたし』岸富美子 石井妙子

満映とわたし

満映でフィルムの編集に携わっていた岸富美子さんの回想を、石井妙子さんがまとめたもの。

満映は戦前から戦時中にかけて、日本が満州に作った国策映画会社。満州は今の中国東北部あたり。

岸さんは満映を知る貴重な証言者として「当時の満映はどうだった?」「李香蘭はどうたったの?」と、重宝がられていた。石井妙子さんもそんな質問者の一人として、よく岸さんにお話を聞いていた。だけどある時、岸さんが自分の半生をまとめた手記を持参したことがあった。石井さんがそれを読んだ時に「取材者は私も含めて、岸から自分にとって必要な話だけを切り取ろうとする」「(岸さんは)切り刻まれてしまった自分をかき集めて、改めて息を吹き込みたいと願ったのではないだろうか」と、岸さんの手記の完成に携わろうと思うようになる。

それで岸さんのお話。満映については李香蘭の自伝から読んでいたけど、今度は日の当たらない裏方からの証言ということで、全く別の視点からいろいろと知ることができた。また、ただでさえ裏方なんだけど日本映画界の男尊女卑と「つべこべ言わずに監督に従え」的な文化で、ますます裏方なんだよね。満映満州の映画会社ということで、多少は日本よりもマシだったけど、やっぱりそういう文化は維持されてる。

岸さんと李香蘭は同い年なんだけど、やっぱり裏方スタッフと特権的主演女優みたいな感じで、ほぼ接触なしで、雲の上の人っていう感じ。ただ、二人に共通するのは、満映時代には政治状況をあまりわからずに無我夢中で映画製作に取り組んできて、戦後に自分たちのやってきたことに直面する体験をしてものすごくショックを受けるということ。

岸さんは、戦後も中国に残って、というか残らざるを得なくて、中国共産党北朝鮮の映画製作に携わる。そのとき編集を手がけた作品で、日本兵が中国人を虐殺するシーンがあって、手が止まってしまう。岸さんはそういうことがあったとは全く知らなかったし、戦前の教育を受けてきたので、最初は「いくらなんでも酷いんじゃない?こんなのありえないでしょ」と思っていたけど、岸さんの様子がおかしいと気づいたその作品の中国人監督に「私が体験してきたことです」と諭される。そして、実際の記録フィルムなどを見てショックを受けていくうちにもう認めるしかなくなり、今まで何も考えずに映画づくりのことだけを考えてきたけど(だから国策映画や共産党プロパガンダ映画を作ってきても何の疑問もなかった)、これからは変わりたい、ちゃんと考えて映画作りをしていきたいと思うようになる。

満映理事だった甘粕正彦について岸さんの視線は厳しい。理事長時代には日本人と中国人スタッフの格差を是正したりということもしていて、そこは岸さんも評価しているんだけど、問題は敗戦時。戦争が終わってこれからどうなるのかと満映社員が不安におののくなか、一人、青酸カリを煽って死んでしまった。岸さんはそれが許せない、責任者としてどうなのかと。甘粕さんがさっさと自殺してしまったおかげで、甘粕さんの側で働いていた人が身代わりに過酷な目に合わされてきた。本来、甘粕氏がとらなければいけない責任を、部下が引き受けることになってしまった。だから、責任を取らず逃げ出した甘粕氏が、戦後いろいろと持ち上げられたりするのを見ると、苦い気持ちになってしまうと。

それからおなじみ関東軍ね!敗戦時のヤツらの卑怯さはいろんなところで語り草だけど、やっぱりこちらの手記にも出てきて、ソ連軍が押し寄せてくるというときに、もういち早く民間人を置き去りにして逃げ出してるのよ!しかも引き上げ列車では、一般人は屋根もない貨車で着の身着のままのような状態で乗り込んでるのに、関東軍の家族は家財道具一式を持ち込んだ屋根付きの車両…。

で、さっきも書いたように岸さん一家は戦後もしばらく中国に残ることになって、中国共産党北朝鮮の映画作りに携わったり、技術指導することになるのね。「中国に残る」といっても、決して余裕ある選択というわけではなく、もう一つ一つの選択が何の情報も無い中での生死を分ける必死の賭けなの。

しかも帰国までのその間、ずっと映画作りをしていればよかったわけじゃなくて、途中「精簡」と呼ばれる、なんていうんだろ、映画作りに残るグループと、強制労働させられるグループに分けられることがあって、岸さん一家は長らく辛い強制労働生活を送ることになるのね。冬は零下30度にもなる中国北方で、家も暖房も食料も極限の中、河川の氷を割ったり石炭を運んだりという、出口の見えない過酷な労働に従事させられる。肉体的な辛さもさることながら、なぜこの人が映画作りに残れて、この人が強制労働組になるのかという選別自体が、元満映の人たちにものすごく心の傷を残すことになる。互いに対する猜疑心とか禍根とかね。ここにいた内田吐夢監督、木村荘十二監督も、あんまりに辛すぎたのか、はたまた書くと誰かを批判することになるからか、自伝でも精簡についてほとんど触れられていないのだとか。岸さん自身も当時のことを思い出すのは胸が痛くなるそう。

ちなみに、精簡で強制労働従事者の選別に関わった人たちで、中国人は後に謝罪してくれたけど、日本人は謝罪しないどころか非を全く認めなかったと書かれていた。

 岸さん自身のキャリアでは、そもそも映画界に入ろうなんて思っても見なかったのね。お兄さんたちが映画業界で仕事をしていたのだけど、男女差別も酷い業界だし、岸さん自身は洋裁で身を立てようと思っていたの。そうしたら、お兄さんたちが次々に病気で倒れたり徴兵されたりして、まだ15歳くらいの岸さんが働かなければいけなくなって、お兄さんが映画会社の編集のお手伝いという働き口を見つけてきてくれたのがきっかけ。

最初は言われるがままに仕事をこなすだけだったんだけど、日独合作映画『新しい土』の編集アシスタントに入り、そこでアリスさんという若いドイツ人女性編集技師のもとで働いた経験がすごい刺激になるの。編集を任されたのが女性というのが、当時の日本では考えられなくて、しかも監督が横暴なことをしたら部屋に呼び出して口論になるほど自己主張する。でも岸さんたちアシスタントにはとても優しく、編集技術を惜しみなく教えてくれる。アリスさんはすっかり岸さんの憧れの人、目指す目標になるんだよね。

で、岸さんが長年目標としてきたアリスさんのような一人前の編集技師になり、後輩に指導を行うのが、面白いことに敗戦後の中国でのことなの。中国では少なくとも技術を持っていれば女性でも尊重され、仕事を任されていたと書いてあった。当時、岸さんが技術を教えた人たちの次の世代には、陳凱歌など中国映画黄金時代を支えた名監督が多数輩出されたそう。